昭和44年9月14日 朝の御理解 中村良一
御理解 第10節
「神が社へ入っては、この世が闇になる。」
神が社へ入っては、この世が闇になる。神様は、あー、社には入ってはおられない。ですから、この世は、いわば、闇ではない。えー、光り輝くばかりの、世の中である。ということですね。ところが、やはり、お先真っ暗、この世は闇だと。そのために、不安、焦燥といったような事になっておる。そこで、ここで私は思うことはですね。この世が闇になると仰る。この世は闇ではない、光り輝くばかりの世の中だと。いうならば、神愛満ち溢れた世の中だと。あまりにもその、神愛の情というか、が、高度なものであり、その光が、あまりにも、おー、輝くばかりのものでございますから、ね。その輝きに、お互い、目がくらんでおるようなものではなかろうかと、私は思う。ですからもう、闇と同じこと。ね。天地の神様のお声というものは、それこそ、世界中に、いわゆる、世界じゃないですね、この宇宙に響き渡るほどしの、おー、大音響、大音響といったほうが良いでしょうねえ。神様のお声というのは、そういうその、あまりにも、おー、いわば、大きなお声であるためにですね。分からない、かえって。ね。
昨日、おー、えー、マイクの、おー、上等なマイクを買わして貰おうと、ここでは、昨日も、十三日会で、お話をしたり、または、一人一人が、また発表なさる、うー、ために、その、上等のマイクを買う。企画でそれを取り上げてくれないかと言うて、私が、えー、菊栄会、ニ。三人の方に話しましたんです。そしたら、親先生、あの、マイクの上等というのはですね。えー、素人は使い切らんとですよち言う。丁度、親先生と同じこっですよち、はっはは、もう、扱いが悪うて、すぐ崩れてしまうち。はっはっは、ち言うてから、私にそういうんです、文男さんが。ほう、私は、そげん崩れ易かっじゃろかと。(笑いながら)あれはもう、ちょっとですね、あの、使いつけない人が使ったら、もう、あの崩れるほどしに微妙だそうですね。ですからあの、歌手なんかの人がもっておるマイクというのは、もう、誰にも扱わせない。自分だけしか使わない。だから、その、上等と、かえって今、うちで使っとるやつが良いですよと。あー、そげなこつのと言うて、私は思うて、えー、ほんなら、聞いておりましたけれども、確かにですね、上等のマイクというのは、親先生の様なもんだと、こういうのを聞いてから、確かに、そうかも知れないなと、こう思うんです。ね。お互いの心というものが、段々、上等になってまいりますとですね。もう、神様の、おー、それの大音響の、その、大きな響きをですね。じーっと、自分に合うようにですね。例えばあの、テレビなんかでも、大きな、ガガガガガいったらばね。いわゆる、分からないでしょうが。それを、じーっと絞ってまいりますと、はっきり聞こえてくるようになるでしょうが。ね。それを、その自分の心のなかに、調整が出来るようになりますとですね。その、大音響を、小さくしていくことが出来る。そして、そこから聞き取ることが出来るようなおかげが受けられる。なるほど、その道理というか、あー、その、理というのは、同じだなという風に思います。ね。天地の親神様の、あまりにも大きな、その響きですから、かえって分かって、大音響だから、かえって耳に入らない。目もくらむばかりの輝きであるために、かえって、目がくらんでおる。ね。そういう、私はね、調整をする。ね。それを、教祖は、またの御教えに、信心するものは肉眼をおいて、心眼を開けよとこう仰る。心の目を持ってしないとですね。その神様の光を光、輝きを輝きとして見ることが出来ない。ですから、一つの、事の事態といったようなものでもです。ね。それを、おー、やはり、難儀と見ておる。それは、目がくらんでおる証拠なんです。ね。ですから、心の目を持ってすると、それは、難儀ではなくてです、いわゆる、神愛溢れるばかりの神様の情がそこに、そのような形で現れておるだけの事。肉眼を置いて、結局、心眼を開かなければね。やはり、開かなければ、この世は闇だと思うですね、私は。不安、焦燥、取り越し苦労、ね。心配な。だから、信心するのですけれども、心配だから信心するのですけれども、その信心によって、おかげを頂くのではなくて、その信心によって、心の目を開かせていただく稽古をするのです。「あんた、何のためにそげん腹かきよるの」ち言われる。うっはは、なるほど、肉眼で見たり、聞いたりすると、腹も立とうごたるけれども、心の目を持ってみるならばです。「そら、あんた、神様にお礼ば申し上げんならんじゃないの」という事になるのです。ね。素晴らしいことでしょうが、心の目を開くというのは。ね。心願を開くという事は。この世が闇ではない。光り輝くばかりのものである。神様は、私共に、大きな、大音響の響きのような、その、大きなお声を持って、私共に、何時も、問いかけ、話しかけておられる。それを聞き取る耳を持たない。
大阪の奥平野ですかね、というところに、片島せんという、女の徳者の先生がおられた。もう、殆ど無学に近いお方である。お家は鍛冶屋さん。ご両親が早く亡くなられた。それで、自分でフイゴを起して、自分で、その、トッチンカン、トッチンカンをやられながら、その、生活を立てておられたと。それに、身体はお強い方だったらしいですね。たまたま、ご神縁を頂いて、御神米を頂いてきてから、フイゴのね、このフイゴの、このいわゆる、壁に御神米を貼り付けてから、拝みござった。ね。ところが、神様から、いわゆる、神様の声を聞かれるようになった。ね。それで、まあ、取次ぎ者としての、おー、資格を受けられて、その大変なゴヒレイを頂かれ、大変なおかげを受けられた教会です。ね。片島せん先生が御神前に出られると、いちいち、神様からお答えがあった。ある時に、神様はね。世界中の氏子に話がしてみたいと仰った。ね。神様の、これが信条なんですよ。世界中の氏子に話しがして見たい。そして、難儀をしておる、苦労をしておる、その難儀の実相というものをです。よくよく教えてやりたい。それは、難儀じゃないのだと。その難儀の実相というのは、神愛なのだと。神の思いなのだと。「あなたを、お前を幸せにしてやりたい」願いの現われなのだと。いうならば、一人ひとりに話しかけて、その、難儀の中から、喜びの、いわゆる、歓喜の生活に入らしてやりたいというのが信条。何を話しなされた。「氏子を幸せにしてやりたい」その事を話してやりたいと言う。「世界中の氏子に話がしてみたい」と。「聞く耳を持たぬから、せんにおよばん」と仰ったそうです。ね。神様はもう、せつにせつに、氏子の一人ひとりに話しかけて、幸せにしてやりたいと思し召すのが、御神意である。けれども、「聞く耳を持たぬから、せんにおよばん」と。そこで、聞く耳を持った氏子、ね。いわゆる、片島せんと言った様な、御神徳を受けられた先生が、神の声を聞いて、それを氏子に伝えて下さる。ね、その事でもです、そんなら、疑うて聞かなければ、せんにおよばんのです。ここで私が、ほんなら、神様から、色々とお知らせを頂いて、皆さんにお話を聞いてもらう。ね。それを疑うて聞かなければ、せんにおよばん。いや、疑わんにしても、それを、行の上に現さなければ、せんにおよばんのであります。ね。
昨日は、十三日会に若先生がお話をしておりました。その、前々日から、青年教師会が福岡で開かれた。ね。ある先生が、「これは、青年教師であろうが、お取次ぎの御用をさして頂くものはね。とにかく、御徳を頂かなければできません」と、人を取り次ぎ助けるといったようなことは、御徳を受けなければできることじゃないと、言うて発表されたが、そんなら、その、「御徳とはどういうものか」と、問題になった。さあ、御徳を受けておらなければ、お徳がどういうものだという事が分からない。そこで、やはり、御徳を受けられたという先生方がですね。例えば、九州で言うならば、あー、近いところには、甘木の初代、いー、安武先生なんか。ね。少し、昔になりますと、桂先生とか。久留米の石橋、初代の松次郎先生とかという、まあ、神様の御神徳を受けられた先生方がおられるから、ね。それを、やはり、見たり聞いたりしておる。だから、それを、やはり、御徳といわなければ仕方がないのである。なるほど、御徳を受けられた先生方が、道のために、大変な、色んな御用をなさった。そこで、そこのところが、はっきり残っておりますから、そこんところを見るわけなんです。ね。久留米の御大祭の時に、御大祭がすんで、すぐ、小倉の親教会から使いの人が見えた。その使いの人が、大きな風呂敷を一つ持って、これをもっていきよった。石橋に、そういえば分かると言わっしゃった。何の用やら分からずに、その使いに立った人が、久留米に参られましてから、石橋先生にその事を言われましたら、「ああ、そうですか」と言うて、その風呂敷を持って奥に入られた。そして、その風呂敷一杯、その日の御大祭の、お初穂の全部を、風呂敷に包んでから渡された。徳者と徳者の、そのやり取りというものは、本当に禅問答のようですねえ。「これを持っていきゃ分かる」ち、うっふっふ、言わしゃった、桂先生が。今日のお初穂を、全部これに入れてやれとは仰らなかった。ただ、風呂敷を持たしてやんなはっただけじゃった。ほっで、石橋先生に、あの、親先生が、こうこう言われましたと言うて、お届けをされると、「ああ、そうですか」と言うて、その風呂敷包みを裏に持っていかれたら、その日のお初穂を、全部そのまま、風呂敷に包んで渡されたとこういう。ね。そういう事がですね。平気でお出来になられたんです。ね。師匠も師匠なら、弟子も弟子なんです。素晴らしいことだと思います。ね。ですから、そういうところが話に残っております。そういうものを見た、(塩見先生方?)が、ははー、ああいう風にしなければ、御神徳とは受けられんものだと、やっぱ、思うておるわけです。ね。ですから、昨日のその、御神徳という事は、どういうことか分からんけれども、とにかく、信者に沢山なお供えをさせて、その、出来るだけ沢山なお供えを、神様の御用に使わせて頂くという事によって、徳を受けるんだという話になったそうです。ね。御神徳というのは、だから、一生懸命お供えをさして頂くということから、御神徳を受けるんだと。先生方が、いよいよ、徳を受けられるのは、さっさと、信者にお供えをさせて、その、お供えをされた、そのお金をまた、神様の御用にどんどんお使いになるから、あの先生は、あのようにお徳を受けられたんだと、現在、いわば、その青年教師の方達の、御神徳という事に対しての説明は、そのようなものであったという事。私は、それは、全然嘘とは思われませんね。けれども、これは、御神徳に私はならんと思うんです、実は。そういう事が、平気でお出来になられたからです。ね。それは、例えば、そうですよね。今ここが幾ら風が入ってまいりましても、こちらを閉めきっとったんじゃ、後は入ってきません。やっぱり、こちらを大きく開けるから、風が何ぼでも入ってくるというようなです。ね。そういうおかげは受けられたと。大きく風が入ってくるようなおかげは受けられたけれども、それが、御徳になっとらん事はなかろうけれど、私は、そげなこっじゃなかて。神様は、お供えさえすりゃ、信用しなさるような神様じゃなかて。ね。どこまでも、私は、ね。限りなく心の美しい人の上に、ね。言うならば、「限りなく、信心とは、本心の玉を研くものぞや」と仰るが、様々なことを通らせていただいて、本気で、本心の玉を研いていく人の上にです。神様のご信用と言うものは、付くものであって、決して、お供えしたから、おかげは受けても、御徳は受けるものじゃないけれども、そのようなふうに、私は、曲解されて、間違ってきよる。極端に間違ってきよる。大変なことだなあ。今の青年教師の方達が、確かにここまでは気が付いておる。とても、お取次ぎの御用をさして頂くという事は、普通じゃでけん。お徳を頂かなければ人は助からん。お徳を受けなければ、どうにも出来るこっじゃないというところまでは分かっておるが、果たして、その御徳というのは、どういう事かと言うと、信者に一生懸命お供えをさせて、そのお供えをされた、そのお金を、また、御用に使わせていただく、そこに、いよいよ徳を受けていく道があるんだというふうに、という事は、これは、大変なことだなと私は思うんですよ。教団の行く手に、そういう、いわば、この世が闇になるようなものを感じるです、私は。それを聞きましたら。ね。そげな事じゃないと。信心しておかげは受けてくれよであってですね。お供えをして、おかげを受けてくれよじゃないて。ね。信心してという事はね、信心してという事は、いわゆる、信ずる心であり、ね。真心であり、神心である。そういう、信ずる心も、神心もです、ね。この、本心の玉を研かなければ、改まりに改まって、研いていくことに努めなければです、信ずる力は生まれてこんのです。ね。人間と人間の場合でも同じでしょうが。ね。お金の、いわば、使いっぷりが良いけんち言うてから、あー、信用が出来る訳じゃないでしょうが。あの人の心は美しいから、人が人を信用するとでしょうが。そげん、分かりやすい事を、どうしてそんなに分からんだろうか。それが、今言うように、桂先生と石橋先生のやり取りじゃないけれども、そういうような事が、平気でお出来になられた。甘木の初代でも、そうなんです。ね。当時、例えばです、ね。百円のお金を使う時には、神様ごとに使う時にはです。自分の一円の金を使うような気持ちで使えと教えられたんです。ね。そして、自分の金を今度は一円、自分が今度は一円を使う時にはです、それこそ、百円の金を使うごたる思いで使えと言われたんです。ね。いうなら、神様の前には、もう、惜しげもあしげもなしに使えというのである。そういう話が残っておるもんですから、そういう使い方をなさった、いわば、形に現れた安武先生のそこだけを見るものですから、ははー、どんどん、お供えさえすれば、お徳が受けられる。だから、ああいう大徳を受けられたという事になってきておるのではなかろうかと、私は、若先生の話を聞きながら思うたんです。ね。決してそんなこっじゃないて。御徳というのは、どこまでも、どこまでもです。ね。神様の心を心として、神様の心を分かって、本当に分かって、氏子信心しておかげを受けてくれよと仰るように、いわゆる、信ずる心。同時に、神心。本当に、自分で自分の心が拝みたくなるような、有難い心にならせて頂くことに、努めて努めて努めぬく人の上に、神様のご信用である、御神徳は、付くものであるということ。ね。もう、大変な見当違いじゃなかろうかと私は思うんですねえ。ね。そこで、結局、お供えの話やら、御用の話やらばっかりしか、しなさらんのだ。さっさとお役に立たにゃという事は、さっさとお供えせにゃという事になってくる。ね。石橋先生あたりが、沢山の財を、ね。お徳を頂いた方達が、その、集めることが出来なさったのは、お供えさせなさったんじゃなか。お供えはさせてもらわなきゃおられん。おかげを受けて、おかげを受けて有難い、勿体ないがです。いわば、大祭の時には、大風呂敷に一杯包み上げるほどしのお供えを、信者はせろと言うてしたんじゃない、有り難うして、勿体のうして、どうかせにゃおられんとが、あのお供えになっとったんですよ。それを、お供えをさせて、そして、その根本が違う。ここでもそうでしょうが。ね。お供えせんから、助からんとは絶対ない。けれども、おかげを頂いて、どうかせにゃ勿体ないが、お供えになったから、こういう、いわば、御造営なら御造営が出来るようになり、ね。なら、親教会でも、御本部にでも、言うならば、私が昔、夢に、心の中に描いておったような御用が段々出来るようになっただけの事。だから、それで私は徳を受けようなんてもう、さらさら思っていない。ね、限りなく美しゅうならせて頂く、その事が、おかげを頂くのである。ね。その事が、御徳を受けるのである。お供えするからお徳を受けるのじゃない。そこでね、今日の、ここんところをです、輝くばかりの、それこそ、目がくらむばかりの、神様の光というものがです。あまりにも、すごいまでの光であるために、目がくらんでおるのが、私共の実態だと。だから、もうそれは、目がくらんでおるのですから、闇と同じだと。ね。神様は、世界中の氏子に話がしてみたいと仰るほどしの、その神様の信条というものは、ね。私の話を聞いて分かってくれれば、今、難儀と思うておることは、いま、おかげと分からせていただくことができるんだけれども、さあ、聞く耳を持たぬから、せんにおよばんと、神様が片島せんという先生にお伝えになられたようにです。ね。私共は、聞く耳を持たぬから、せんにおよばぬ。そこで、聞く耳を作らせていただこう、見える、全てのことが見える心の目を開かせて頂こうと。ね。心の目が見えてくるから、本当の信心が、本当の道が分かる。だから、いよいよお徳を受けていかれたのが、私は、あー、今で言うなら、石橋先生やら、桂先生やら、安武先生あたりというのは、心の目を開かれたから、御徳を受けられたのです。それは、心の目を開くというのは、いよいよ本心の玉を研きに磨きしておい出られたから、心の目が開けてきたのです。だから、人が驚くことに、一つも驚いてござらん。人が、惜しい、欲しいという時に、一つも、惜しゅう、欲しゅう思うてござらん。心の目が見えるから、それが出来られたんです。ね。ですから、御神徳を頂くためにはです、先ず、何と言うても、心の目を開くことに精進しなければならんということが分かりますですね。ほんなら、心の目を開くためには、どのような信心をさせて頂くかという事は、私が常日頃申しております通りです。ね。信心するものは肉眼をおいて心願を開け。心の目を開かせて頂くと、腹の立つような問題であっても。
昨日、えー、十三日会に熊本支部の、おー、方達が、みな参ってきとりました。中に、まあ、最近信心始めたというお婆さんが、自分がおかげ受けておること、一口話させて下さいと言うて、マイクの前で話されました。私はもう、信心をする前にはね、主人から、「おーい」と言われただけで、腹の立ちよったち言う。もう、何もかにも、腹の立つ材料ばかりじゃったと。主人から、「おーい」ち言われて、腹の立つならば、もう、返事もしようごつなか。また、あれが俺に文句言おうと重い世おるけんでと思うて。そげん思うらしいんです。ね。人間の心というものは、とにかく、「おーい」と言われただけで腹が立つ。それが、信心をさせていただくようになって、段々腹が立たんようになってきたと、こういう一口でしたけど、そういう事を言っておられますがです。これは、みんながそうじゃなかろうかと、こう思うですね。もう、チョイとした事が、腹が立って、腹が立ってたまらん。何故、腹が立つか。本当のことが分からんし、ね。心の目を、が、いわば、この世を闇にしておるから、腹が立つのです。心の目を開かせて頂くと、腹の立つどころか、お礼を申し上げたいということが、大きくなってくるんです。ね。「神が社に入ってはこの世がやみになる。」という事は、神様は、社には入られる神様ではない。この世に現れておられる。ね。だから、それが闇どころか、それこそ、この世全体が、光り輝くばかりの光の中にあるんだと。ところが、私共、人間がです、あまりにも素晴らしい光であるために、目がくらんでおって、ああー、この世は闇だというようにです。この世は、難儀なところであるというふうにしてしまっておるのだ。ね。そこへ、私共はその、光を光としていただくために、自分の心の調整。いうならば、目が見えないなら、めがねをかける。自分の目に合った度合いのめがねをかければ、それがはっきり見えて来るように、信心というめがねを掛けさせて貰うて、ね。神様の光を光として頂けて、ね。危なっかしくない、安心した生活が送れれる所まで、おかげを頂かなければならん。それを、今日、私は、心の目を開くと申しました。やはり、頂くのである。心の目を頂くのである。めがねを頂くのである。ね。心の目が開けてくると、今まで難儀と思うておったのは、難儀ではなくて、神愛であるということが分かる。そこで、今日は皆さんに一つ、提議したいんです。皆さんに、このことだけを今日は行じて貰いたいんです、ね。お互いが、まだ、心の目を開くことができていないけれどもです。いや、この肉眼を開かせて頂いておる。肉眼が、このように見えておるということです。私は、今朝の御祈念に、その事ばーっかりをお礼を申させていただいた。また、その事ばーっかりを、お詫びさせていただいた。世界中の氏子がということが、世界中に、そら、メクラさんもおりましょう、沢山。ね。けども、目の開いておる、肉眼を持って見えておる人が、どのくらいあるやら分からん。ね。しかも、その道理を分からせて頂いておる御道の信者さんだって、どれだけおるか分からんけれども、いま、こうして見えておるという事にです。ね。もう、本気で、お礼が申し上げられておる人が幾らあるだろうか。とても、お礼を申し上げている人が少ないならば、これは、私は、今日は、その事だけでも、目が見えていることにお礼を言わず、ね。ただ、目が見えておることにです。ほんなこつ、いらんもんば見たとかね。もう、いらん事を聞いたとか。さあ、見えたのも、聞こえたのも、耳が聞こえておるということ。耳を頂いておるから、目が見えておるから、いらん事が見えたんですよ。ね。ほんなら、一遍、目を瞑ってみるがいい。ね。アメリカの、あれは、ヘレンケラーという、あの、三重苦の人がおりますね。目が見えない、耳が聞こえない。ものが言えないという人なんです。その人が書いておる、その、お書物の中にですね。もし、私にです、ね。谷間を流れる、せせらぎの音を、一度でも聞かせて頂いたら、ね。木の枝から木の枝に、ね。移ってさえずっているであろう小鳥の声を、一度でも聞かせて頂いたら、今、この命を召されても良いと言うております。ね。この目で、この耳で、この口で、自分の思うことが喋りたい。ね。どのような素晴らしい音楽があっておっても、この耳が聞こえないということがです。どのような難儀なことか。本当に、それを聞いたら、ね。その、谷のせせらぎの音を、一度でも良い聞いたら、今、この命を召されても、満足だというほどしのおかげをお互いが頂いておるということなのだ。ね。ですから、今日はね、この肉眼の目が見えておると、見えておるという事をです。ね。本気で、はー、私は、昨日、娘の、んー、婚礼の衣装を、あの、持ってきた下さったのを、それこそ、目も綾になるばかりの見事なものを見せて頂きながら、それを感じるんです。もし、これが、私が、ね。メクラであったらです。はー、娘が、どげな婚礼衣装を着るじゃろか。手で撫でることは出来ても、見ることは出来ない。これが、見えるということが有難いと私は思うた。今日、この御信者さんの中に、目を手術する人があります。ね。ま、それやら、これやらを思わせていただいて、今日はその、目の事ばっかり。見えておるということが有難い。ね。この有難いという事にです。本気で気付かせていただいて、おかげで見えておりますという喜び。ここは、ここ一つに焦点を置いてです。今日は一つ、皆さん、目の見えていることに、それこそ、喜びを神様に感謝捧げさせて貰うおかげを頂きたい。ね。そこからね、私は、肉眼の開けてくる、いわば、肉眼の開けてくる、うー、きっかけといったようなものが必ず出来てくると思うんです。ね。肉眼をおいて心願を開けと仰るのは、信心の喜びを持ってしか開けんのです。私共が、目が見えておるという事に、本気で有難い、勿体ない。ほんとにこれが見えておるということが、なんと有難いことだろうかと思う前に、先ず一遍、目を瞑ってごらんなさい。ね。そして、もし、これが見えんなら、かわいい孫の顔も見えない。綺麗な嫁さんの顔も見えない。ね。それが、この目で見えているんだから。ね。とは、また反対に、憎たらしいものが見えて来る。けれども、これはもう、見えているおかげであると思うてです。憎たらしい、見えているものが有難いと思うたら、憎たらしいものが、憎たらしくなくなってくる。そこに、心眼の開けるきっかけが出来るんです。ね。今日は、皆さん、色々聞いていただいた中に、ね。最後に、これだけは一つ、一日、ね。今日は、こうして様々なものを、見せていただいたり、聞かせていただいたりだけども、この、見せて頂いておるというところだけにです。焦点を置いてです。お礼を申し上げる生活をなさったら、有難いことになると私は思うんですよね。どうぞ。